2016年07月12日

旧王子製紙野田工場 (サハリン州チェイホフ町)

1922年2月操業の王子製紙野田工場。
戦後、野田工場も他の樺太の工場と同様、国営企業として操業していたが、ソ連崩壊以降は施設の殆どが廃墟と化し、現在は温水供給のため施設として、その一部が利用されているに過ぎない。
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今もなお、工場近くには当時の社宅が現存しロシア人が暮らしている。
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2016年06月23日

サハリンに今も残る奉安殿(その3)

今回はサハリンの西海岸チェイホフ(旧野田町)周辺を調査。
そこで見つけた奉安殿をご紹介。

小高い丘(梅香山)の中腹に街を見下ろすように佇む旧野田国民学校の奉安殿。
奉安殿までの長く一直線に続くコンクリート製の階段が今も残っている。
現在、国民学校の跡地にはチェイホフ第1番学校が建っている。
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住所:チェイホフ村シュコリナヤ通1

人の背丈ほどもある鬱蒼と生い茂る雑草の中に隠れるように佇む登富津国民学校(真岡郡小能登呂村)の奉安殿。
車道から、その姿を窺い知ることは先ず出来ない。
外壁には過ぎ去った時の長さを感じさせる苔がびっしり。
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住所:不明(google mapより 北緯47.397993 東経 141.991340付近 資材置き場南隣り)
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2016年03月17日

旧王子製紙落合工場(サハリン州ドリンスク市)

王子製紙落合工場の始まりは、1917年4月に日本化学紙料が日本初のクラフト専門工場として、当時、家屋十軒程の小さな集落であった落合において操業した事に始まる。
以後、1922年6月に富士製紙との合併、1933年5月の王子製紙による吸収合併を経て、終戦後はソ連の国営企業として操業を続けていた。
しかし、ソ連邦崩壊以降、著しく経営が悪化、1995年には操業を停止した。
現在はドリンスク市内へ温水と暖房を供給する施設として稼働している。


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撮影:2013年8月16日

枕木だけが残る引込線の跡、そして70年という時の流れを感じさせる庇を覆う樹木。
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撮影:2013年8月16日

現在は廃墟となっている赤レンガの建物。レンガの壁に刻まれた標章は化学紙料のものだろうか。
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撮影:2015年12月20日
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2015年12月11日

サハリンに今も残る奉安殿(その2)

前回に引き続き、サハリン・ホルムスクに残る奉安殿をご紹介。

ユジノサハリンスクとトマリへの分岐点となる交差点から、トマリ方面(北へ)へ車で2、3分。
道路左脇(海岸側)にポツンと建っている。
しかし、隣りで資材置き場の造成工事が進んでおり、何時壊されるとも限らない超危機的奉安殿。
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設置学校名は不明。
住所:ホルムスク市レソザヴォツカヤ通(R495)沿い
(レソザヴォツカヤ通とミチュリナ通との交差点から北へ約400m)
樺太時代の住所は「知志内」または「宇遠泊」なのだろうか?

旧真岡郡清水村二股(チャプラノヴォ)に残る奉安殿。
おそらく二股国民学校に設置されていたものに違いない。
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住所:ホルムスク地区チャプラノヴォ村(ホルムスクから約30Kmユジノサハリンスクより)
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2015年12月07日

サハリンに今も残る奉安殿(その1)

奉安殿とは、太平洋戦争以前に天皇と皇后両陛下の御真影(写真)と教育勅語(戦前の教育理念を説いた勅語)を安置した独立棟で、主に尋常(国民)小学校などに建てられた構築物。
戦後、GHQの命令(神道指令)により日本国内に有るその多くが破壊され、日本国内にはほんの僅かに残るだけと云う。
一方、ここサハリン(旧南樺太)には、GHQの破壊命令から免れた奉安殿が数多く現存する。
そんな奉安殿の中から、ホルムスクに現存する奉安殿を、2回にわたってご紹介します。

旧真岡第一尋常(国民)高等小学校
住所:ホルムスク市モスクワスカバ通1
ホルムスク市内で最も保存状態が良いと思われる奉安殿
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旧真岡第二尋常(国民)高等小学校
住所:ホルムスク市マカロフ通2
屋根、壁とも朽ち果て、最悪な保存状態。
おまけに、基礎に空いた横穴は奉安殿を寝床とする5匹の野犬の出入り口に。
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2015年09月07日

今でも現役! ユジノサハリンスクに有る、昭和初めの文化住宅

先日ご紹介した拓殖学校から程近くにある日本の文化住宅。
1935年(昭和10年)に建てられた物件との事。
驚くことに、80年経った現在もロシア人の老夫婦が暮らしている。
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外壁は風雨に強いと言われた南京下見板張り(重ね張り)。
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玄関先、上がり框(写真上)。明らかに日本の造りだという事が見て取れる。
襖は壁紙が張り替えられているものの、天井ともに当時そのまま(写真下)。
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昔懐かしい、玄関横の石炭庫と便所の汲み取り蓋(写真上)。
庭には石畳の小道。
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2015年08月28日

必見! 樺太庁拓殖学校(豊北農業学校)

ユジノサハリンスクの北に隣接してある集落ノボ・アレクサンドロフスク。
日本統治時代には「小沼」と呼ばれた地である。
日露戦争終結の翌年(1906年)には、すでに小沼には農事試験場が置かれ、樺太において当時の最先端の農業・畜産業を実践する地となっていた。
そんな環境の下、1934年(昭和9年)に開校したのが樺太庁拓殖学校。後の豊北農業学校(1941年校名変遷)である。
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開校当時は、凸型をした正面の造りだったが、戦後ソ連時代に総3階建てに増築されている。
2階、3階部分にハッキリと残る増築部分との境目。
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御影石と思われる当時そのままの階段手すり。
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戦後暫らくは、農業学校の寄宿舎として供用されていたが、現在は一般のアパートになっている。
近くには奉安殿が。今は一民家の倉庫として使われているようだ。
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住所:ユジノサハリンスク市ヴォストチナヤ通11
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2015年08月25日

旧王子製紙(樺太工業)真岡工場

ホルムスクの街外れにある巨大廃墟。
1919年9月に操業を開始した王子製紙(当初は樺太工業)真岡工場跡である。
当時の最先端技術を導入して建設された堅牢な造りは100年近く経過する今日にあっても、その一部は朽ちても尚、工場(製材所、温熱水供給施設、倉庫等)として使用されている。
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完全に廃墟となった外観と内部の様子
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今も供用されている工場棟(左上)。
朽ちた階段を登りビックリ!廃墟の中で遊ぶ子供を発見、思わず記念撮影。
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工場を見渡せる高台に、数多く残っていた王子製紙の職員住宅。
昨年秋にその多くが取り壊され、現存するのは写真の2棟のみ。
この2棟もいつ解体されるとも分らない。
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2015年08月21日

超必見! 旧樺太庁豊原病院(第441軍病院)

今日は、昨年7月28日に本ブログにてご紹介した旧樺太庁豊原病院を再度ご紹介。
と云うのも、先日、幸運にも病院内の撮影に成功!
「その全貌についてお伝えします」と云いたい所ですが、曲がりなりにもここは軍施設。
ほんの触りだけをご紹介。
ご紹介できる範囲に限りがある事、ご容赦下さいネ。
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正面玄関を入って直ぐに、当時の内玄関ドアらしきアンティークな扉(上左)。
当時のエレベーター?(上右)
当時の面影そのままの廊下の様子。(左右下)
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2015年06月19日

「銀河鉄道の夜」白鳥の停車場!サハリン・スタロドゥブスコエ

大正12(1923)年8月4日、小説「銀河鉄道の夜」の作者、宮沢賢治は当時の日本最北端の駅であった栄浜駅(樺太東線)に降り立った。
賢治の樺太訪問の目的は、当時教師をしていた農学校(現花巻農業高等学校)の教え子の就職を、知り合いに依頼するという事だったようだが、本当の目的は開業したばかりの稚泊航路(大正12年5月5日開業)を乗り継ぎ、前年に亡くなった最愛の妹トシの魂を探し追い求める傷心の旅だったとも云われている。
写真は、92年前に賢治が降り立った栄浜駅の鉄路跡。
ご覧の通り、哀愁漂う鉄路(駅)跡を、戦後70年を過ぎた今でも微かに判別(枕木跡)することができる。
宮沢賢治ファンの皆様、そして日本全国の“てっちゃん・てつこ”の皆様、是非一度、栄浜(現スタロドゥブスコエ)を訪れてみては如何でしょうか。
また、この鉄路跡の目と鼻の先には、コハク海岸と呼ばれる風光明媚なオホーツク海が広がっていて、運が良ければものの5分程で琥珀を簡単に採取する事もできますよ。
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旧栄浜駅跡は、スタロドゥブスコエ市街を大きく左に90°曲がる道の角を起点に、北方面へ数百メートル進んだ左手側(内陸側)にある。
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道を外れ内陸側へ進むとハマナスが鉄路跡を覆い隠すように自生している。
一方、道を挟んで海岸側には当時の石炭庫に続く鉄路跡を僅かに確認できる。
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琥珀海岸へは、90°曲がる道を曲がらずに直進。
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この日、1時間ほどで数個の琥珀を採取。
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2014年11月06日

必見!サハリンの樺太時代の建物探訪 第8弾(旧樺太製糖豊原工場)

写真は、1936(昭和11)年に建設された三角屋根が特徴的な旧樺太製糖豊原工場。
現在もチョコレート菓子等を生産するサハリン唯一の菓子工場として稼働している。
驚くことに、瓜二つの工場が北海道士別市に実在(日甜士別製糖所)しているとの事(2013年12月1日、北海道新聞朝刊)。
道新の記事によると、この二つの工場が瓜二つなのは、元々両工場とも旧明治製糖(現大日本明治製糖)の工場で、設計者も同一人物であったことがその理由らしい。
建設から約80年。宗谷海峡を挟み、日ロ両国にある双子の工場。双方、末永く変わらない姿で有り続けていてもらいたいものです。
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2014年10月29日

必見!サハリンの樺太時代の建物探訪 第7弾(旧豊原放送局)

写真はNHKの旧豊原放送局(当時は社団法人日本放送協会)。
1941年12月26日に正式放送(コールサイン:JDAK 出力:50W)を開始するも、1945年8月23日ソ連軍の侵攻に伴い放送を停止、その放送期間は4年にも満たない短いものだった。
しかし、終戦後はユジノサハリンスクラジオ放送局(サハリン州通信庁)として、今もサハリン各地に電波を発信し続けている。

ユジノサハリンスク市カムサモリスカヤ通145付近(敷地はガガーリン公園に隣接)
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写真中央の古びた電波塔は建設当時のもの。
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2014年10月24日

必見!サハリンの樺太時代の建物探訪 第6弾(木造平屋建て一般住宅)

ユジノサハリンスクの街のど真ん中に、取り壊されずに今も有る日本時代の木造平屋建ての家屋。
つい、数年前まで居住する人もあったようですが、今は荒れに荒れ放題。
知っている限りでは、ユジノサハリンスク市内に唯一残る樺太時代の木造一般住宅。
文化財としても希少価値有りと思うのですが、何時まで姿形を留めている事でしょう?
一見の価値有りですよ!

住所:ユジノサハリンスク市ジィエルジンスカバ通29
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2014年09月03日

必見!サハリンの樺太時代の建物探訪 第5弾(旧樺太庁会議室)

ゴシック調の半円アーチ型の窓が特徴的な旧樺太庁会議室。
竣工は1935(昭和10)年。
現在もロシア軍の施設として活用されていて写真撮影もままならない状況。
写真は門兵が横を向いた一瞬の隙に撮影した一枚です。

住所:ユジノサハリンスク市ジィェルジンスカバ通41
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2014年08月29日

ブイコフ炭鉱(旧内淵炭鉱)

ブイコフ炭鉱(旧内淵炭鉱)
樺太時代には内淵炭鉱と呼ばれていたブイコフ炭鉱。
ユジノサハリンスクから北へ30q程行ったドリンスク(旧落合)から内陸へ20q行った所にある。
戦後、ソ連軍により施設の全てが接収され、国営企業として採炭を再開。
ペレストロイカ以降も細々ながら採掘を続けていたが、2007年に中国企業に売却された後、2011年には廃坑状態。現在はロシア人の管理人が一人常駐しているだけとなっている。
そのため、採炭時に1万人以上が暮らしていたブイコフの人口は、嘗ての日本の多くの炭鉱街同様、閉山により今はその半分の5千人が暮らすだけの、これといった産業も持たない寂れた田舎町となっている。

今も残る施設の多くが日本時代に建設されたものだ
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