ホルムスク、初冬の釣り人達
サハリン ホルムスク(旧真岡)の街並み
サハリンの西海岸の港町ホルムスク。
日本統治時代には「真岡」と呼ばれたこの街は、昭和20年8月15日(日本でいう終戦)以降もソ連軍の侵攻(8月20日)を受け、「九人の乙女」が自決した真岡郵便電信局事件(北のひめゆり事件とも呼ばれる)が起きたのを始め、日本本土最後の地上戦の舞台となった悲劇の町である。
しかし、嘗ての悲劇の町も今はサハリンと大陸とを結ぶ海のゲートウエイ。
そんなホルムスクの町をチョッとご紹介。
嘗ての真岡郵便電信局は、ロシア最大手スベルバンクホルムスク支店(写真上右)
港の門(出入り口?)と野外市場の様子(写真上)
海浜公園で出会った超気さくなロシアの女子高校生(写真下)
真岡神社の遺構。現在、ここには海運会社が建っている。
1945年8月20日から23日にかけ、ソ連軍との激しい戦いが繰り広げられた旧熊笹峠。
峠からホルムスクの町が見える。
ソ連の戦勝記念碑の横には日本軍の塹壕跡も残っている。
日本統治時代には「真岡」と呼ばれたこの街は、昭和20年8月15日(日本でいう終戦)以降もソ連軍の侵攻(8月20日)を受け、「九人の乙女」が自決した真岡郵便電信局事件(北のひめゆり事件とも呼ばれる)が起きたのを始め、日本本土最後の地上戦の舞台となった悲劇の町である。
しかし、嘗ての悲劇の町も今はサハリンと大陸とを結ぶ海のゲートウエイ。
そんなホルムスクの町をチョッとご紹介。
嘗ての真岡郵便電信局は、ロシア最大手スベルバンクホルムスク支店(写真上右)
港の門(出入り口?)と野外市場の様子(写真上)
海浜公園で出会った超気さくなロシアの女子高校生(写真下)
真岡神社の遺構。現在、ここには海運会社が建っている。
1945年8月20日から23日にかけ、ソ連軍との激しい戦いが繰り広げられた旧熊笹峠。
峠からホルムスクの町が見える。
ソ連の戦勝記念碑の横には日本軍の塹壕跡も残っている。
ホルムスク(旧真岡)探訪
サハリン第3の都市ホルムスク。
嘗ての日本統治時代には真岡と呼ばれたこの町は、1945年8月15日の終戦の日を過ぎても尚、ソ連の攻撃を受け、多くの日本人が犠牲となった悲劇の街である。
現在、ホルムスクはバム鉄道の終点ワニノとを鉄道連絡船で結ぶ港町。今年も、稚内・コルサコフ日露定期フェリーを乗り継ぎ、ヨーロッパ、アフリカ等を目指し日本の若者が大陸へと渡る大陸へのゲートウェイである。
フェリーターミナルと鉄道連絡船「サハリン9」(写真左上)。大陸側のワニノ港まで約17時間余りで結ぶ。
日本時代の防波堤と臨海公園(写真下)。多くの市民の憩いの場となっている。
旧王子製紙真岡工場と旧社宅(写真上)。旧社宅は今も住居に供されている。
旧真岡神社の石段と手水場(写真下)。現在、旧真岡神社跡にはサハリンの船舶会社の社屋が建っている。
1945年8月20日、ソ連軍が真岡を攻撃。
当時、真岡郵便電信局の電話交換手として働いていた女性12人のうち、9人が青酸カリなどを用いて自決するという悲劇が。
その旧真岡郵便局跡には、現在ロシア最大手のスベル銀行が営業する(写真左上)。
嘗ての日本統治時代には真岡と呼ばれたこの町は、1945年8月15日の終戦の日を過ぎても尚、ソ連の攻撃を受け、多くの日本人が犠牲となった悲劇の街である。
現在、ホルムスクはバム鉄道の終点ワニノとを鉄道連絡船で結ぶ港町。今年も、稚内・コルサコフ日露定期フェリーを乗り継ぎ、ヨーロッパ、アフリカ等を目指し日本の若者が大陸へと渡る大陸へのゲートウェイである。
フェリーターミナルと鉄道連絡船「サハリン9」(写真左上)。大陸側のワニノ港まで約17時間余りで結ぶ。
日本時代の防波堤と臨海公園(写真下)。多くの市民の憩いの場となっている。
旧王子製紙真岡工場と旧社宅(写真上)。旧社宅は今も住居に供されている。
旧真岡神社の石段と手水場(写真下)。現在、旧真岡神社跡にはサハリンの船舶会社の社屋が建っている。
1945年8月20日、ソ連軍が真岡を攻撃。
当時、真岡郵便電信局の電話交換手として働いていた女性12人のうち、9人が青酸カリなどを用いて自決するという悲劇が。
その旧真岡郵便局跡には、現在ロシア最大手のスベル銀行が営業する(写真左上)。